この日を記す

ライター西森路代の仕事とかいろいろ

好きなものと心中する必要なんてない

『プロペラを止めた、僕の声を聞くために。』というのは、千原兄弟渡辺鐘という三人による2003年のライブです。2003年というと、松山から上京して二年とか三年とかで、東京では見たいと思えばなんでも見えるということにワクワクしていた頃でした。

 

そんな中でのお笑いが好きだった私は、千原兄弟の出るライブや、映画の舞台挨拶などにけっこう通っていたと思います。松山で単独ライブは見られなかったからこそ、貴重な経験と、今よりもすごく神聖な気持ちで行っていたのではないかと。

 

このライブを見終わったときの気持ちは強く覚えています。なにか、ドキュメンタリーを見たような感覚があって、ちゃんと人間というものを見て、そこから考えたであろうネタが詰まっていたし、すごいものを見たと思って、もうお笑いライブにはいかなくていいかもしれないという気持ちになったのでした。普通、いいライブを見たら、もっと行きたくなるものなのかもしれないんですけどね。満足してしまったというか(もちろんその後もお笑いライブには行っていますが)。

 

そして今日、ENGEIグランドスラムでの千原ジュニアの久々のネタが披露されました。ちゃんと今もネタを作るということに向き合っているのだなと分かって、ちょっとうれしく思いました。

 

このうれしかったということにはいろんな気持ちがあります。というのも、お笑い芸人、特に自分が10代や20代で影響を受けた人は、今、肯定できるかというと、できない人のほうが多い。それはなぜかというと、人を傷つけるようなネタに対して、無神経で深いところまで考えていない人も多いから。千原ジュニアも、探したらそういう発言もあるのかもしれないけれど、まだ絶望するほどの体験はありません。今日のネタもちゃんと考えられていると思ったし、誰かを傷つけるネタではなかったから、まだ昔の思い出が壊されることはないのかなと思いました。

 

以前であれば、「そんなことにいちいち目くじら立てなくても」と笑って済ませられたことも、笑って済ませてはいけないと思うようになりました。なのにまだ、「お笑いとはそういうものだ」と思考を停止させている人はいます。思考停止してしまうのは、「ここで考え方を変えると、今まで人を傷つけてきたお笑いの歴史全部を否定することになる」と考え、お笑い業界全体に忖度をしているからなのかもしれません。いや、そこまで考えているならまだマシです(というのはイヤミです)。多くの人は、人を傷つけるネタの先にいる人間について想像ができていないからだと思います。

 

しかも傷つける笑いを無自覚に作り続ける人もいれば、無自覚な人に傷つけられても、それを受け入れるのが役目と思って、従っている人もいます。例えば、ブスいじりをされる人たちなんかはそういうところはあるのではないでしょうか。

 

これまでブスいじりでテレビでの居場所を見つけてきたから、それをいまさら覆したら、テレビや先輩芸人を裏切るようになる、そして何より居場所を失う、そう考えている人もいるでしょう。私はこれまでにも女芸人の在り方に対して、ブスいじりに甘んじなくてもいいという趣旨の記事を書きましたが、あの記事を読んで、内心「商売の邪魔になる」と思う人がいてもおかしくないと思います。ただ、これは簡単に責めていいことではありません。なぜなら、それを言い出しにくいことこそが、社会的な問題でもあるのですから。

 

先日、『ボクらの時代』にハリセンボンの近藤春菜さん、優香さん、浜口京子さんが出ていたとき、春菜さんがカップルを捕まえてきて、彼氏がハリセンボンのどちらかとキスしたらデート代一万円をあげるという「サイテーの企画」があったという話をしていました。彼氏には「なんだよ…」と言われながらキスすると、彼女には「もう彼氏とはキスできない」と言われ、その後、ギャラを握りしめながら飲んだと言っていました。

 

それを面白おかしい話としてしないといけないテレビ、それを受け入れないといけない構造に、私はまったく笑えませんでした。本人的には、それは仕事だからとは思っているので、私がそれを指摘することは大きなお世話なのかもしれないけれど……。

 

テレビやお笑いを見ていると、この番組でなくても、芸人は、笑われてなんぼ、傷つくくらいのギリギリを攻めてなんぼという考え方が透けて見えるときがあって、しんどくなります。この前の『ナカイの窓』の「私たちそんなにブスですかSP」という番組でも感じました。テレビのお約束、現場が求めている、そういういじりの場面しか編集で使われないという事情もあるのだと思いつつも。

 

しかし、ふと立ち止まって考えてみると、なぜ一部のテレビの前提は「傷ついてなんぼ」「喧々諤々と対立項でバトルしてなんぼ」になってしまったのでしょうか。もちろんその背景には、だらっと流れるような空気のものには、視聴者が食いつかないから、何かの刺激のポイントを作らないといけないと考えているのだということは容易に想像がつきます。ただ、本当にそれでいいのか、なぜそれが常識となってしまっているのかを、考えてしまいます。

 

私は、テレビを見て書く仕事が非常に多いし、テレビのことは好きですが、別に気分の悪い番組まで擁護して、テレビ全体に悪いところなんてない!とする必要はまったくないと思います。だから、今はいいネタをしている芸人さんでも、やはり疑問を持ったら、その都度、疑問をちゃんと口にしたいと思います。それは、テレビ、お笑いに限らず、すべてのジャンルに対してそうだと思います。

 

好きなものと心中する必要はまったくないのです。

記号で見られないことは幸運かもしれない

R-1ぐらんぷりを見た。ゆりやんレトリィバァは今日も面白い。何がよいって、けっこう日々の疑問をネタに落とし込んでいるところかもしれない。彼女はかつて、自分が実力よりも注目されていないことにも疑問を持っているような場面を見かけた。ブルゾンちえみの密着番組に、ゆりやんがちょこっと映っていたときだった。

しかし、今となっては、必要以上に持ち上げられなかったブルゾンの幸運を思う。もちろん持ち上げられたというか、一時期にわーっと話題にされる人にも同じように才能があっても、過剰に持ち上げられた分、一過性のものと世間からみなされがちになることもある。一時期に過剰に持ち上げられると、時間が経つと、同じように別の人を持ち上げることの繰り返しになる。そこに入れられないということは、ある意味幸運なのかもしれない。記号で見られないことは幸運なのであると。ときに、その記号を過剰に利用するという猛者もおるけども。

それは何も女性に限ったことじゃないかもしれない。先日、劇団MONOの取材で、土田英生さんに取材をしてきたんだけれど、劇団も出てきたときにはわっと話題にされるそうで、「自分が20年前に演劇を始めて、そのときは雑誌とかで取り上げられて俺たちもイケるのかもとも思えたし」「若手が次々と出てくるとそこに注目が行くということの繰り返しで、出てきた後が大事なんですよね」と語っていた。

確かに、自分や自分の周りでも思い当たる。三年前は、この劇団を見ておかないといけないという空気ができていたと思っても、現在は、また違う劇団を目撃しとけという空気はある。でも、結局は一過性で過剰に話題にされようが、そのとき注目はさほどされなかろうが、本人が続けようと思っている限りは、続いていることだけが重要なのかなと思った。

いまさら『富士ファミリー』を見た

お正月にNHKで放送された、木皿泉さん脚本の『富士ファミリー』をやっと見た。私が見たのは2016年版のほうだけど。

この作品、家や商店を中心に描かれている。例えば、『葛城事件』や『国際市場で逢いましょう』は、両方ともに商店が出てきて、一家の長である父親が、その商店とそこから透けて見える家というものを、よりどころにして生きていることが描かれている。その両作品の父親は、最後に家と商店をどうするかっていうことで結末が変わってくるのだ。

この『富士ファミリー』はというと、そういえばその家には父親が出てこないし、商店を切り盛りしているのは、片桐はいり演じる笑子バアさんだ。バアさんは、年々衰えて迷惑をかけてしまうかもしれない自分のことを、「ここにいていいのだろうか」と思って生きているのだけれど、それはあるシーンで解けることになる。

不思議なことに、このドラマでは商店も家も存続したままなのに、家父長制的に家に縛られる感じがしない。それは、家の外からやってきたもの、例えば死んだ奔放な次女の夫がそのまま家にいたり、東京からいわば逃げてきた住み込みのアルバイトなどを、家に取り込んでいるからだ。血縁だからとか、存続のためだからといって、しばりつけるのではなく、居場所のなかった人を受け入れる場所としての家だからこそなのだ。

しかし、長女は長女だけに、家に縛られているような感覚をもっていたことがわかる。それは、たぶん50歳くらいになって初めて外泊したことでわかる。長女は勝手に縛られていただけだたのだ。バアちゃんは、娘の外泊の連絡を知って、住み込みのアルバイトと大笑いをする。

誰も縛っていないのに、縛られていた気がしていたことが解けたのは、転がるように生きてきて死んだ次女の幽霊から、「転がってもいいんだ」と言われるからである。

家は単なる居場所であり、縛るものでもないし、転がりたかったら転がればいい、老いたってわけありだからって、この世の中にいてよくないなんてことはない、それだけが描かれてるだけで、こんなにも優しい作品になるのだなと。

そういや先日韓国の『哭声/コクソン』を見て、閉鎖的な集落の心理をホラーと組み合わせて描くってことは、昔は『八つ墓村』関連で見られたけれど、最近は見なくなったなと思っていた。しかし、この『富士ファミリー』の舞台となった町も、『コクソン』のようになってもおかしくないくらいの人口の土地ともいえる(いやそこまでではないかもしれないけど、描き方によっては)。

でも、そうはならないことを描きたい、というのが今の日本にはあるのかなと思った。それは、見たくないものを描きたくないという消極的なことのように、『富士ファミリー』を見る前には思っていたけれど、そうとも言えないような気がした。絶望を描くことと、希望を描くことはどっちが難しいのだろう。

「タラレバ」「逃げ恥」関連の仕事


最近の仕事のことを。このところ、『逃げるは恥だが役に立つ』や『東京タラレバ娘』関連の記事が多かったので、それをまとめておこうと。


ユリイカ東村アキコ特集で、「東京タラレバ娘」について書いてます。
「何が女の子をタラレバ娘たらしめたのか」

 

あとは、『タラレバ』『逃げ恥』の編集者のおふたりの対談のライティングしました。
「逃げ恥」×「タラレバ」担当編集者が教える「ヒットの秘密」
いま、女性漫画に求めれられていること
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/51249


『逃げ恥』の作者・海野つなみ先生と、ドラマ脚本の野木亜紀子さん対談でもライティングしました。
【対談】逃げ恥の「萌えポイント」を読み解いてみたら2017年3月28日
「逃げ恥コンビ」対談 ~ 漫画原作者海野つなみさん、ドラマ脚本家・野木亜紀子さん 前編
http://wol.nikkeibp.co.jp/atcl/column/15/192326/032400025/


毎日新聞での「タラレバ」記事でコメントしています。
特集ワイド「東京タラレバ娘」が…アラサー女性に刺さる理由
http://mainichi.jp/articles/20170208/dde/012/040/003000c